セキュリティにお金をかけても、売上は1円も増えない

公開日:2026年11月4日|カテゴリ:セキュリティ・経営・投資判断

「セキュリティにお金をかけても、売上は1円も増えない」。経営会議でこう言われて、予算を削られた経験のある担当者は少なくないはずです。実際、IPA(情報処理推進機構)の2024年度調査では、中小企業の62.6%がセキュリティに「投資していない」と回答しています。理由の上位は「必要性を感じない」「費用対効果が見えない」「コストがかかりすぎる」でした。

しかし、この判断は数字で検証すると成り立ちません。本記事では、セキュリティ対策を投資として評価する具体的な計算方法、どのくらいの金額をかけるべきかの目安、そして「被害にあわない」ことが会社にどれだけの利益をもたらすかを、行動経済学と成功している経営者の考え方から解説します。

第1章 被害は「決算書」に表れる

まず、サイバー攻撃が企業の業績にどう響いたのか、公表された数字で確認します。

【図1】サイバー攻撃が業績に与えた影響(公表情報より)

事例 何が起きたか 業績への影響
アスクル
(2025年)
ランサムウェア攻撃で受注・出荷が停止 中間期の売上12.3%減、営業利益は約90億円悪化、特別損失52億円
アサヒグループ
(2025年)
受注システムの復旧に約2か月、全商品の出荷再開まで約半年 2025年の一時費用は約170億円。2026年も一時費用約60億円、セキュリティ費用約35億円を見込む
中小企業の平均
(IPA調査)
過去3期の被害。復旧期間は平均5.8日、最長360日 平均73万円、最大1億円。被害企業の約7割が取引先にも影響

中小企業の平均73万円という数字を見て「大したことはない」と感じたなら、注意が必要です。これは平均値であり、被害の分布は極端に偏っています。多くの企業は小さな被害で済む一方、ごく一部の企業が事業継続を揺るがす損失を負います。経営判断で見るべきなのは平均ではなく、「自社が最悪のケースになったときに耐えられるか」です。

第2章 なぜ経営者は「投資しない」を選ぶのか

① 損失の局面では、人はギャンブルを選ぶ

ノーベル経済学賞を受賞したカーネマンとトヴェルスキーのプロスペクト理論によれば、人は利益の局面では確実さを好み、損失の局面では一か八かの賭けを好む傾向があります。「確実に500万円払う(対策費)」と「10%の確率で1億円失う(被害)」を比べると、多くの人は後者の賭けを選びます。確実な出費の痛みの方が、不確実な大損より強く感じられるからです。

② 確率の丸め込み——「10%」は「起きない」に変換される

人間の脳は、小さな確率を正確に扱うのが苦手です。年10%の確率は、1年単位では「たぶん起きない」と丸められます。しかし、10年間で一度も起きない確率は約35%しかありません。10年経営を続ければ、約3社に2社が一度は被害にあう計算です。

③ 予防のパラドックス——防いだ成果は誰にも見えない

思想家ナシーム・タレブは、ある議員が航空機の操縦室ドアの施錠を義務づけ、テロを未然に防いだとしても、彼が英雄として称えられることはないと指摘しました。何も起きなかったことは、誰の目にも成果として映らないからです。セキュリティ対策がうまくいくほど「何も起きないのだから、予算は不要では」という声が強くなる。これが予防のパラドックスです。

第3章 「いくらかけるべきか」を数字で出す

感覚に頼らず判断するために、具体的なモデル企業で計算してみましょう。

モデル企業:製造・卸売業、売上高10億円、粗利率30%、従業員50名、受発注システムとECサイトを運用

ステップ1:最悪のシナリオで被害額を見積もる

ランサムウェアで基幹システムが1か月停止し、顧客情報の一部が漏えいした場合を想定します。

【図2】モデル企業の被害額の内訳(試算)

取引先の離脱(翌年の粗利減)
3,000万円
1か月の操業停止(逸失粗利)
2,500万円
調査・復旧の外部費用
2,000万円
漏えい対応(通知・窓口・補償)
2,000万円
信用回復・その他
2,000万円
臨時人件費・手作業対応
500万

合計:約1億2,000万円(売上の12%、年間粗利の4割)

※モデル企業の仮定に基づく試算。実際の金額は業種・規模・被害内容で大きく変わります

注目すべきは、最大の項目が「取引先の離脱」だという点です。IPA調査で被害企業の約7割が取引先に影響したと答えているように、被害は自社だけで完結しません。

ステップ2:年間の期待損失を出す

対策をしていない状態で、この規模の被害が起きる確率を年10%と仮定すると、年間の期待損失は1億2,000万円×10%=1,200万円です。つまり、対策をしない会社は、目に見えないだけで毎年1,200万円分のリスクを抱えていることになります。

ステップ3:2つの物差しで投資額を決める

【図3】適正な投資額を導く2つの物差し

物差し1:売上高の0.5%

日本サイバーセキュリティ・イノベーション委員会(JCIC)が示す目安。

→ 年500万円

物差し2:期待損失の約37%

ゴードンとローブの研究では、最適な投資額は期待損失の約37%(1/e)を超えないとされる。

→ 年約440万円

2つの物差しは、どちらも年400万〜500万円程度を示しています。従業員1人あたりに換算すると年8万〜10万円、月7,000〜8,000円ほどです。もちろん、これは上限の目安であり、全額を使い切る必要はありません。重要なのは、「いくらまでなら合理的か」という天井を、感覚ではなく計算で持っておくことです。

第4章 予算を「効く順」に配分する

予算の上限が決まったら、次は使い道です。セキュリティ対策は、費用と効果が比例しません。安くて効果の高い対策から順に実施するのが鉄則です。

【図4】費用対効果で見た対策の優先順位

費用が小さい 費用が大きい
効果が大きい 最優先(今すぐ)
多要素認証、OS・ソフトの更新、ネットから切り離したバックアップ、退職者アカウントの削除
計画的に導入
EDR(端末の監視)、外部の監視サービス、古いシステムの更新
効果が限定的 並行して実施
年1回の全社研修、ルールの文書化
慎重に検討
自社に合わない高機能製品、使いこなせない多機能ツール

第5章 「被害にあわない」ことは利益を生む

投資家ウォーレン・バフェットの有名な原則は「ルール1:絶対に損をするな。ルール2:ルール1を忘れるな」です。資産を大きく減らすと、元に戻すには減った割合以上の成長が必要になります。50%失えば、元に戻すには100%の成長が必要です。大きな損失を避けること自体が、最も確実なリターンなのです。

さらに、セキュリティ対策には「守り」だけでなく「攻め」の価値もあります。

【図5】セキュリティ投資がもたらす2種類のリターン

守りのリターン(損失回避) 攻めのリターン(価値創出)
● 操業停止による売上損失を防ぐ
● 調査・復旧費用が発生しない
● 賠償・漏えい対応費用が発生しない
● 経営者と社員の時間を奪われない
● 取引先の審査に通り、新規取引を獲得できる
● 補助金の申請要件を満たせる
● 「安心して任せられる会社」という信用が採用や営業で効く
● 多要素認証やパスワード管理で、ログイン作業が速くなる

特に重要なのが取引への影響です。経済産業省は、取引先のセキュリティ水準を星の数で示す「サプライチェーン強化に向けたセキュリティ対策評価制度」を2026年度中に始める予定です。★3は全企業が最低限目指すべき水準、★4は第三者評価を前提とした標準的な水準とされています。制度自体は任意ですが、大企業が取引先に一定の星を求めるようになれば、セキュリティ対策は取引に参加するための「入場券」になります。

また、IT導入補助金を引き継いだ「デジタル化・AI導入補助金」では、IPAの「SECURITY ACTION」の自己宣言が申請の前提条件です。セキュリティへの取り組みが、そのまま資金調達の条件にもなっているのです。

第6章 AIで「投資の説明」と「運用コストの削減」を両立する

使い方1:自社の数字で被害額を試算させる

第3章の計算は、AIに自社の数字を渡せば数分で作れます。前提条件を変えた場合の比較も簡単です。

プロンプト例:
「売上高8億円、粗利率25%、従業員40名の印刷会社です。ランサムウェアで基幹システムが2週間停止した場合と1か月停止した場合の被害額を、逸失粗利・復旧費・取引先離脱などの項目別に試算してください。各項目の前提条件を明記し、根拠の弱い数字には『要確認』と付けてください。」

使い方2:逆から考えて稟議書を作る

バフェットの盟友チャーリー・マンガーは「逆から考えよ、常に逆から考えよ」を口癖にしていました。「どうすれば成功するか」ではなく「どうすれば会社が潰れるか」を先に考えるのです。AIに「当社がサイバー攻撃で廃業に追い込まれるシナリオを3つ考えて」と頼み、そのシナリオを防ぐ対策と費用を並べると、説得力のある稟議書の骨子ができあがります。

使い方3:日々の運用をAIで軽くする

セキュリティ費用の多くは、製品代ではなく人の手間です。ログの要約、脆弱性情報の確認、社員からの問い合わせ対応などをAIに任せれば、同じ予算でより多くの対策を回せます。AIは投資額を増やす道具ではなく、投資の効率を上げる道具として使うのが効果的です。

注意:AIに渡す数字の扱い

決算の数字や取引先名を入力する場合は、入力内容がAIの学習に使われない法人向けの契約や設定を使いましょう。試算段階では、金額を丸めたり、社名を伏せたりしても十分です。

まとめ 次の経営会議に持っていく「1枚」

予防のパラドックスに打ち勝つには、「何も起きていないこと」を数字で見える化するしかありません。次の経営会議には、次の1枚を用意してください。

【図6】経営会議用・セキュリティ投資判断シート

① 最悪シナリオの被害額 ○○万円(逸失粗利+復旧費+取引先離脱+漏えい対応)
② 年間の期待損失 ①×発生確率=○○万円/年
③ 投資額の上限目安 売上の0.5%と、②の37%を比較
④ 今年度の投資案 図4の「最優先」から順に、対策と金額を列挙
⑤ 攻めのリターン 取引先の要求(評価制度の星)、補助金要件、業務効率化
⑥ 成果の見える化 防いだ攻撃メールの数、更新適用率、復元テストの結果を四半期ごとに報告

セキュリティ対策は、利益を生まない経費ではありません。会社が積み上げてきた売上・取引・信用を、一夜で失わないための投資です。そして、その価値は計算で示すことができます。

【参考・出典】IPA「2024年度 中小企業における情報セキュリティ対策に関する実態調査」/アスクル 2026年5月期中間決算(ネットショップ担当者フォーラム報道)/アサヒグループホールディングス公表情報(各種報道まとめ)/日本サイバーセキュリティ・イノベーション委員会(JCIC)の投資目安/L. A. Gordon, M. P. Loeb “The Economics of Information Security Investment”(2002)/経済産業省「サプライチェーン強化に向けたセキュリティ対策評価制度」関連情報
※モデル企業の試算は仮定に基づく例示です。発生確率・被害額は業種や規模で大きく異なります。投資判断にあたっては、自社の状況に応じて専門家にご相談ください。

タグ:セキュリティ投資, サイバーセキュリティ, 経営判断, ランサムウェア, 費用対効果, SCS評価制度, SECURITY ACTION, AI活用, 行動経済学

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